困難な時代を蓮しく生き抜いた蓮如上人
黄帝内経(BC3〜AD1c前漠期)という書物は漢方医学の聖典とも言われていますが、その中の宣明五気篇に「五蔵の蔵する所は、心は神を蔵し、肺は……。五蔵の主る所は、心は脈を主り、肺は……。」と記載されています。つまり心を生理作用としての精神と血脈の機能をもった臓器の両面から捉えています。又漢方医学においては、各々の臓腑に対して必ず他の器管や組織体の機能、精神・感情が関係し影響を与えていると考えられています。この点が現代医学における臓腑の概念と大きく異なっています。そして当然のことながら、古代の人々は心臓についての解剖・病理学的知識に乏しかった為、循環器系の疾患についても詳しくはなかったはずと思われます。
平成10年に蓮如上人500回忌が西本願寺で盛大に開催されました。蓮如は浄土真宗の中興の祖といわれ、その業績の大きさからして親鸞に勝るとも劣らない存在でありながら、大衆の誰もが知っているという人物ではありませんが、私にとっては大変身近な人でありました。それは、私の家が浄土真宗本願寺派で、あの金箔の豪華絢欄たる仏壇の中央にお釈迦様、向かって右に親鸞聖人、左に蓮如上人がおいでになり、子供の頃より手を合わせてきたからです。祖父は朝晩の読経を日課にしており、その声がそろそろ60歳に手が届く頃になった今でも耳にこびり付いています。
蓮如は1415年に生まれ、1499年数え年85歳で亡くなりました。彼が生きた時代の社会情勢は、権力闘争と内乱、大飢饉、疫病の大流行等と日本の歴史の中で最も混沌とした時期でありました。そうした不運な時代背景に加えて、彼の生い立ちは生母が寺の召使いという身分の低さから、6歳の時父存如が正妻を迎えたことによりいずこへとも姿を消すという悲惨な出来事に始まって、43歳で本願寺の住職となるまで常に不幸の連続でありました。特に家庭的な人柄であっただけに、長男の順如以外はすべて里子に出さざるを得なかった貧窮な暮らしはさぞ辛かったであろうと思われます。そうした生活環境の中でもひたすら親鸞の主著「教行信証」やその解説書である「六要抄」(存覚著)等の真宗教学やその他の仏教学の勉学に励みました。このような真面目な生き方が、やがて父の正妻の子応玄との後継者争いにおいて、叔父如乗の後盾を得る事で法皇の地位を得るに至りました。そして蓮如は終生この叔父の活動を徳として、北陸加賀の本泉寺を盛り立てています。
蓮如は生涯に5人の妻を持ちましたが、それぞれ情愛の深い生活を過ごし、悲しい死に別れをして、線あって次の新しい生活を始めるという繰り返しでした。最初の妻の如了とは13年間に7人の子供をもうけています。2番目の蓮祐は最初の妻の実の妹で、このような結婚は余程夫に誠実さがなければ実現しないのではないかと思います。3番目の如勝も、70歳を過ぎてから迎えた4番目も自分はど幸せ者はいないと言っています。最後の5番目の蓮能は50歳余りも年下で、蓮如が没する3ケ月前に、彼にとって最後の子供となる第27子を産んでいます。端的にいえば、彼の精力絶倫さと、功なり名とげたサクセスストーリーはあまりに世俗的で、このことが我が国では特に知識人の間では嫌われる結果となったかもしれません。いずれにしても彼は度重なる悲しみを常に乗り越え、また信徒とも家族同様の接し方をしながら妥協を繰り返し、現実的な生き方をすることであの困難な時代を迂しく生き抜いたわけです。そしてそのような生き方が私達に共鳴を与えるのは、平穏で繁栄しているかのように見える現代社会も実はその表面下では、合理性と経済性の行き詰まりから不安と不満が充満し、それらを払拭する勇気と合わせて、彼が何かはっとする気持ちを起こさせるからではないかと思います。
そういえば浄土真宗では生活信条の第一として、「み仏の誓いを信じ、尊いみ名を唱えつつ、強く明るく生き抜きます。」と教えています。
ナチュラルインフォーメンションより(H17年8月)より
暑い時期には要注意−心(しん)とこころ


